①宮城県石巻市(旧桃生郡河南町)

 

 この河南町周辺は桃生(ものう)郡と言います。「桃から生まれる町」なんて誰でも、桃太郎を想像するのでは、ないでしょうか。この地名の桃生「ものう」とはアイヌ語で「流域の丘」を意味する「モムヌプカ」が モノウと訛ったもので、桃生は読みにあてたものであり、桃太郎とは無関係だというのが定説。

 

 桃太郎神社は旭山の中腹に鎮座しています。特に案内板などはなく詳細は不明です。社殿というよりは小規模の御堂のような印象を受けます。

 「日本一桃太郎神社」石碑の表の揮毫は内閣総理大臣、岸信介さんの書。裏に『霊峰旭山に鎮座する 桃太郎神社は、日本人の心をあたたかく護る ふるさとの宮居であります。この度、北村、大沢出身で旭川市の相田利治氏の郷土愛に燃ゆる篤志御寄付により鳥居を奉献し神域を尊嚴に整えることが出来れた茲に氏に徳を讃え謹してみて録します。昭和46年5月 旭峰  斉藤荘次郎 識』とある。

 

  お婆さんは定川(じょうかわ、昔「情川」と書き桃太郎の人柄を表した)へ洗濯に行きました、すると大きな桃が流れてきた所が「来た村」(北村)、桃が赤かったので「赤井」と地名が付き、拾い上げた場所が「広淵」。桃太郎は「犬吠坂」の犬、「猿田」の猿、「鳥の巣」の雉を従え、「小友坂」(おともざか)を通って「鬼ヶ島」(金華山)を目指した。桃太郎は・・・・・鬼ケ島に行って鬼征伐をして、お爺さんとお婆を喜ばせ、めでたしめでたしで終るのが殆どの桃太郎話です。

鬼は、悪い事をして貯えた物だけれども、あんな若僧に持って行かれてしまった。いつも酒ばかり飲んで悪事をしてきた罰だけれども、このまま引っ込んではいられない、と思い虎の皮の褌を引き締めて、捩り鉢巻きで一所懸命働いたそうです。

そうして、すっかり準備ができてから、舟を仕立てて宝物を取り返しに行ったそうです。

桃太郎は毎日酒ばりくらっていたので、体がなまってしまい、犬も猿も雉も酔っ払っていましたから、鬼共に負けてしまったそうです。鬼共は宝物を取りかえし、意気揚揚と帰って行ったそうです。

桃太郎をはじめ、犬と猿と雉は傷だらげになって、それから桃太郎は心を入れ替えて、一所懸命働いたんだとさ。

 

●「みやぎの桃太郎伝説を訪ねて…」りらく8月号 理楽社 1998年7月30日発行

 取材・文/那波由美子 、案内人/平形健一

●昔話研究資料叢書15「陸前の昔話」佐々木徳夫編著 三弥井書店 1975年発行 

 宮城県の桃太郎話


③山梨県大月市

 

 昔むかし、大月周辺がまだ海だった頃、岩殿山は、島で、赤鬼が住んでいたことから、「鬼ヶ島」と呼ばれていました。(岩殿山の岩は、全て水成岩で出来ています。) この赤鬼は、都留市にある九鬼山にいましたが、赤鬼のため、他の青鬼達から嫌われ、岩殿山に住みつき、自暴自棄になって大酒を飲んでは麓から金銀財宝を盗んだり、女や子どもをさらったり、牛や馬を食べたりして村民から恐れられていたといいます。 

 ある日、百蔵山(桃倉山)から、特別大きな桃が転がって、桂川の流れにのり、川下の鶴島(上野原市)で洗濯をしていたおばあさんに拾われました。家に帰ってお爺さんと桃を食べようと割ったところ、男の子が生まれ、桃太郎と名付けられました。

 おばあさんに作ってもらったおつけだんごを食べて、元気にたくましく成長した桃太郎は、岩殿山で悪事を働いては人々を困らせていた鬼の噂を聞き、退治してやろうと出かけました。おばあさんから、きびだんごを作って貰い、道中それを分け与えて、犬目(上野原市)で犬を、鳥沢(大月市)でキジを、猿橋(大月市)で猿を家来にしました。

 岩殿山に着いた桃太郎が、大声で叫ぶと鬼は怒って手に持っていた石の杖を折り、一方を桃太郎に向かって投げつけました。それが、途中で落ちて地面に突き刺さり、地震を起こしました。その辺りを石動と言うようになり、石の杖は今でも鬼の杖 として残っています。その後、鬼は残りの杖を投げつけ、笹子の辺りまで飛んでいきました。こちらは、鬼の立石と呼ばれています。激闘の末、桃太郎は鬼を岩殿山山頂まで追い詰め、東の徳厳山に足をかけたとき股が裂けて血が流れた。今でも、子神神社の境内には赤い色をした土が残っています。

 桃太郎たちは鬼を征伐し、里の人々に幸せな暮らしが戻ってきました。

  

狂歌「桃太郎ここらで伴を連れにけん犬目、鳥沢、猿橋の宿」は明治36年以前(推測)に詠まれていた。国鉄中央線の開通(明治36年)に伴い猿橋駅前に桂川館を開業し弁当や物品を販売し、時期の詳細は不明だが「猿橋名物桃太郎もち」も販売されていた。

 

●世間話研究第17号 ―猿橋の桃太郎―見立てから伝説へ― 齊藤純 世間話研究会2007年

●桃太郎は今も元気だ 桃太郎伝説地を訪ねて 古川克行 岡山市デジタルミュージアム2005年


⑨京都府京都市伏見区桃山

 

昔伏見の里、桃山とよばれるところに、長年連れ添った夫婦が暮らしておりました。ふたりには年頃の娘がひとりおりましたが男子無きことを寂しく思い、御香宮に詣で17日間熱心に祈り続けました。「どうかわしらに男の子を授けて下され」すると満願の日に明神が現れ大きな桃を一つ手渡しました。なんとその桃から頭と手足が生え、みるみるうちにたくましき男の子になった。

蓬莱島の鬼が家の中にいた娘をひょいと担ぎ走り出しました。

娘を助けるために蓬莱島に向かった桃太郎は、打ち勝って娘と鬼の宝物を持ち帰った。

 

●近世子どもの絵本集 上方篇 岩波書店

●百 2015年1号 MOMOテラス発行


⑮鹿児島県喜界島 

 

 尚徳王の喜界島遠征は、1466年の2月末から3月始めに起きた出来事ですが、同じ1466年、遠征直後に、尚徳王は、芥隠(かいいん)という和尚を京都室町の将軍のもとへ派遣し、多くの貢物を献上しています。喜界島は、朝廷の直轄地だったという歴史がある島です。おそらく、喜界島を攻めた経緯や、朝廷や幕府に対して敵対する意図は微塵もないことなどを説明する為の使者だったはずです。

首里王府の使者として派遣された芥隠和尚は、悪い噂を立たれない様に、当時の京都の民衆に対しても、遠い南の島国で起きた出来事を庶民に分かりやすいように物語として語っていた可能性も考えられます。

 

 『桃太郎』の物語のなかに、十二支の思想が取り入れられていることは、よく知られています。

鬼の姿は、頭に牛の角が生え、虎の皮の腰巻を着た上半身裸の姿です。(暑い南国の話を示すもの)沖縄からみれば、喜界島は北東の方角にありますが、丑寅(牛・虎)の方角は、まさに北東に当たります。桃太郎に従った猿・鳥(雉)・犬、つまり、申・酉・戌 は、南西から北西の方角に当たります。喜界島からみれば他の奄美の島々のある方向です。つまり、尚徳の軍勢には、他の奄美の島民たちが加勢していたことを譬えた話にも思えます。

 

 桃太郎のモデルとして、尚徳王を結びつけるのは、突拍子の無い話に思えるかもしれません。それで、もうひとつ付け加えると、尚徳の姉は、「モモト(百十)」 という名前です。

王家の習わしで幼い頃から父母(国王と妃)とは、別邸で暮らした尚徳は、姉であるモモトを母親のように慕っていたという話を聞きます。モモトは波乱万丈の人生を送った女性として知られていますが、その強い性格は、尚徳にかなり影響を与えたものと考えられます。

「桃から生まれた男児・太郎」 は、このことを譬えているものとも考えられます。



②福島県伊達市(旧伊達郡保原町)

 

  「伊達の桃太郎」は今からおよそ三百年前に伊達郡保原地方で語られていた昔話です。この昔話「伊達の桃太郎」の原典は「紀桃奴事」(熊阪台州編著『含とう紀事』所収、寛政4年(1792)刊)です。原典は全て漢文です。「紀桃奴事」は、当時この地方で語られていた昔話「桃太郎」を漢文表記にしたものです。

  一般に普及している「桃太郎話」では、桃太郎は桃の中から生まれ出ます。そして腰に刀を差した武者姿で鬼退治へ向かいます。しかし、「伊達の桃太郎」は、桃を食べたお爺さんとお婆さんが突然若返り、生まれた赤ん坊が桃太郎として成長していきます。そして鬼退治には武器を持たずに行きます。猿とキジと犬をお供にして鬼たちから財宝を奪って来るのは同じですが、「伊達の桃太郎」は特に気前よく、お供の猿たちにはキビ団子を5個6個ずつあげます。全国にある桃太郎昔話のなかで、伊達の桃太郎は日本一気前がいいのです。他に、鬼たちが海水を飲んで桃たろうたちの舟を引き寄せるシーンや「仙人」、「赤い色のしゃもじ」などが登場し、普及本にはない工夫が見られます。

 

「伊達の桃」は、たいへん味が良く、この世のものとも思えないような、おいしい桃でした。また生命が若返る桃で、美人になれる桃だったようです。

  一方、桃太郎話が語られる背景として、桃が庶民に愛される果物として認知されている必要があります。柿や梨と同じように桃が身近な果物でないと、桃太郎話は成立しません。事実伊達地方の江戸時代の「農日記」「商日記」には春の花としてよく桜と桃の開花状況が記されています。当時の桃は花を観賞するのが中心のようですが、稀にすばらしく甘い実を生らせることもあり、食用としての桃の実も品種改良が進んでいったと見られます。幕末ころには桃の実の売買が行われていました。それまで庭木の一つであった桃は、明治後期になると、専用の桃畑が作られました。戦後、伊達の桃は、林檎、梨、柿、桜桃と並んで福島県を代表する果物になりました。

 

●紀桃奴事 熊阪台州編著『含とう紀事』所収、寛政4年(1792)刊)

●「伊達の桃 〜その歴史と桃太郎ばなし〜」 川原町のあゆみ所収

●ふくしまの昔話 絵本「伊達の桃太郎」 まく たろう著 土龍舎 平成22年7月31日発行


④東京都青ヶ島村(古名鬼ヶ島) 

 

 桃太郎伝説の原話の形成は室町以前と考えられているそうですけれども、滝沢馬琴は『燕石雑志』の中で、鎌倉時代初期に書かれた『保元物語』の為朝の鬼が島渡りを擬して桃太郎の鬼ヶ島征伐の物語が成立したと考察しています。また、国文学者で俳人の志田義秀は『日本の伝説と童話』の中で、為朝が鬼が島に渡ったときに昔鬼だった島人が今では島に宝がないと言っていることから考えて、おそらく鬼ヶ島宝取伝説は『保元物語』の成立した頃にすでに存在したのだろうとしています。

 

 為朝は当時「女護が島」と呼ばれていた八丈島で政治改革を行います。女護が島には女だけが住み、青ヶ島には男だけが住む習慣だったらしいのです。そして年に一度だけ男が女の元に通います。それを女は浜にワラジを並べて待ったと言います。これを為朝は「男女が別に暮らすのは誤りだ」と言い放ち、反対を押し切り嫁を貰い一緒に暮らすのです。伊豆諸島に島流しになった為朝が鬼ヶ島を見つけ「宝をよこせ」と言うと、鬼に「昔は有った今はもう無い」と言われています。 

ここに出てくる「鬼ヶ島」とは今の「青ヶ島」だと思われます。これを作り話だと言う人も居ますが、保元物語の鬼ヶ島の記述は、当時誰も知らなかった青ヶ島の特異な地形にそっくりです。

 

●保元物語(ほうげんものがたり) 保元の乱(保元元年(1156年))の顛末を描いた軍記物語 作者 発行年不詳


⑥岐阜県川辺町

昔、鬼飛山には鬼が住んでいて、付近一帯で悪さをしていた。鬼は川辺の町から娘をさらい、夜泣き坂よなきざかを越えてすみかに帰っていた。そこで桃太郎が立ち上がった。桃太郎は、下麻生地区の木知洞こちぼらでキジを、上川辺地区の犬塚いぬづかでイヌを、石神地区の猿が鼻さるがはなでサルを集め、川辺で作ったあわ・きび・ひえできび団子を作って鬼退治に出掛けた。鬼飛山の表門からは桃太郎とキジの一隊、鬼門からはサルの一隊、別の山道からイヌの一隊が三方から攻め立て、鬼を全滅させ、川辺の山里に平和を取り戻した。

と言われています。

 また地名は全て現存しています、登山道には鬼に攫われていく娘が泣きながら歩いたとされる「夜泣き坂」(夜泣き坂は、今は夜之木坂よのぎざかと呼ばれています。また鬼飛山の山腹には今でも鬼門きもん・洞門どうもんが残っているとされています。)や、地名には桃太郎がお供を集めたとされる「木知洞」、「犬塚」、「猿が鼻」が残っています。

 その他にも、鹿塩地区には鬼にまつわる場所がたくさんあります。鬼が桃太郎たちから逃げるときに金棒を突いた川の中の岩に穴が開き、今でもその岩があります。そこには水が枯れることなくたたえており、体にできたイボを治す効果があり「イボ井戸」と呼ばれています。

 また鬼が逃げるときに足をついたところに足跡が残り、金棒をひきずった跡も残っている「鬼淵おにぶち」も残っています。

 中でも一番有名な史跡は「重ね岩」です。鬼が大きな岩を積んで他の山より高くするために北の国から大きな岩を運んで来たけれど、あまりに重くて岩の上に岩をおろして休憩し、しばらく休んでから再び出発しようしました。ところが、岩は重くて二度と持ち上がりませんでした。それが巨岩の上にもうひとつの巨岩が乗った「重ね岩」と言われる、不思議な場所です。

 このような桃太郎伝説を楽しみながら鬼飛山を登山するのも面白いです。

 

●広報かわべ 平成19年5月10日号、平成19年6月7日号

●かわべ町史 民話 桃太郎


⑭長崎県壱岐市

 

  壱岐島には、現地で「イチジョウ」と呼ばれる巫女がおり、ユという曲げ物に弓をのせて二本の竹で叩きながら、百合若大臣(ゆりわかだいじん)説話を謡う風習がある。この壱岐の「百合若説経」(説経祭文)を記した文献には、後藤正足の所蔵本と、折口信夫による発表論文がある。 折口が採集した祭文によれば、百合若は桃から生まれた桃太郎(あるいはこの幼名を持つ人物)で、のちに軍隊を率いて鬼退治に加わる。

 

桃の伝説 折口信夫

 『水のまにまに寄り来る物の中から、神が誕生すると言ふ形式が、我が国にも固有せられてゐて、或英雄神の出生譚となり、世降って桃から生れた桃太郎とまでなり下りはしたが、人力を超越した鬼退治の力を持って、生れたと言ふ処から見ても、桃太郎以前は神であつた事が知れよう。

桃太郎が成長して、鬼ヶ島を征伐するやうになってからの名を、百合若大臣だといふのが、其昔、鬼ヶ島であつた、と自認してゐる壱岐の島人の間に伝はる話である。何故、桃太郎が甕からも瓜からも、乃至は卵からも出ないで、桃から出たか。其は恐らく、だんだん語りつたへられてゐる間に、桃から生れた人とするのが一番適当だ、といふ事情に左右せられて、さうなつたものと思はれる。聯想は、無限に伝説を伸すものである。』

 

●底本:「折口信夫全集 3」中央公論社 1995(平成7)年4月

●底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店 1930(昭和5)年

●初出:「愛国婦人 第四九一号」 1923(大正12)年


 ⑯鹿児島県沖永良部島

 

 桃太郎が「ニラ島」(竜宮ともされる)に行った時、一人の翁に会います。その翁は、桃太郎に、この島の住人は鬼に喰われ、私一人だけ残ったと話し、側にあった 羽釜の裏に鬼が棲む場所を記してあると告げます。

 

 桃太郎は、それを頼りにその場所へ行くと、野原の真ん中に石があり、それを退かすと、鬼が島に通じる穴があり、木の根が下まで伸びていたので、それを伝い下まで降りると鬼達がいて、老いた鬼だけ残し、総て、退治してしまいました。 その老いた鬼から宝物を貰い、持ち帰り親孝行したと言う話です。

 

 このニラ島の「ニラ」は、沖縄地方に伝わる「ニライカナ」と言われる、南東の方角にある海の底、地の底の豊穣や、生命の源とされる異界を意味しているようです。